『大鏡』について

大変遅くなりましたが、『大鏡』について。
なにか、書こうと思います。また長くなります。

終わってからだいぶ経ちましたが、改めて、関わってくださった皆様に感謝申し上げます。
今回も、内部の面ではいろいろ至らないことが多くて、お客様にも、劇場様にも、関係者の皆さまにも、いろいろとご迷惑をおかけしてしまいました。この場を借りて謹んでお詫び申し上げます。

でも、迷惑をかけながらも、この『大鏡』をやった意味はちゃんとあって、こういうのを、やっぱり、演劇でやっていいと。私はちゃんと思っております。
(でも、今やらないといけなかったどうかはちょっと早かったかもしれないと終わった今は思っております。)

ただ、勉強しなかったからわからなかったとか、そういうところで終わってしまった部分はかなり反省しないといけないなあと。
勉強しなかったから、とか。そういう問題じゃないところで作品が機能しないといけなかった。
でも、こういうののひとつの在り方にはなったと思います。前にやった『徒然草』しかり。

じゃあ、「こういうの」ってなに?って話しです。とても説明しにくいんですが、説明してみます。

今、私たちが感じるものとかことはもうすでに先人がはるか昔から感じていたものであって、新しいことなんて殆んどない。
でも、それを自分で発見して新しいと感じることが学びとかいわれるんですが、学びの本質はそういうことではないのだと何となく思っています。

身体の中にあるなんだかよく分からないのにわかった気でいるものをストンと身体におとしてやることが、私の感じている学びに近いのですが。いわゆる掘り下げる。みたいなこと?なのか?

今、くっつけることがとても多い気がしています。演劇だけの話ではなくて、ほんと、色々なところで。前やったから、これもくっつけよう。みたいな。お得感?
でも、くっつくには、ちゃんと掘って、くっつけるスペースを開けておかないといけない気がします。
そういう作業って、ほんらいはとても時間をかけてやることなのだと思うのですが、便利な社会になったので、そういう部分を省いても全然大丈夫だったりします。くっつけるスペースが無限にあるぞ。と勘違いしたりすることもあるかと思います。
でも、大丈夫じゃない時がまだまだある。そういう、まだ不安定な世界なんだと思います。今。
私なんかは心配性なので、そんな不安定なものは信頼できないとすぐ思ってしまいます。

佐々木さんが感想で、自分が歴史上の人物やるなんておこがましいわって思ったって言ってくれたのですがまさにそれで。
役者なんかとてもわかりやすいんですけど、本来、自分が、自分じゃない役をやるなんてホントおこがましいことだと思うんです。でもそれってほんと、役とか、演劇だけの話じゃないと思うんです。仕事だって、自分が仕事をしてお金をもらうなんて本来おこがましいはずだし、恋愛だって、自分があの人とお付き合いとかするなんておこがましいはず。
でもみんなちゃんとやることやって生きています。どっかで何かしらを信じているからできるんですねきっと。
その信じる材料を増やすのが学びの機能だと思っています。
そして、それを信じすぎないようにしてあげるのも、機能のうちの一つだと思います。

その機能が働くためのお手伝いをしてあげるのに、演劇とか、芸術ってとても役に立つと私は思っていて、なにか、そういう作用ができないかなと、ここ最近はいつも思っています。
「こういうの」があっていいの「こういうの」が、それです。

指示語が多すぎてわけがわかりませんね。
最近はそういう機能をもとめて演劇で実験していることが多いです。

機能というかなんというか。何かをつなぐほんの一部の部品になれればとしか思っていません。
実際つなげるのは各個の力です。

その繋げる力をのばそうみたいなのが一部芸術の働きとして認識されつつもありますが、
ぶっちゃけそこは芸術が作用してもしかたないところかと思っている。
(演劇なんかやってたって、コミュニケーション能力は伸びない。)

なんだか、やはり、人間関係みたいな感じです。
私は他人コミュニケーションとるのがやはり極端に苦手な方です。でも周りの人とお話出来たりするのは、青ねりでいえば平澤さんや佐々木さんがいてくれるおかげだったりします。
彼女たちをかいして、コミュニケーションみたいなものをとっていることがすごく多いです。(言葉5の敗因はまさにそこだったりしますが。)
今のところ3点で説明しているその繋がりを、例えば作品(青ねりたち)・観客・世間みたいな形で成立させてみたいなあという話。

べつに今回の『大鏡』は現代に置き換えてやったつもりはまったくありません。
なんら現代と変わっていないからあんな風になりました。
それが良いことなのか、悪いことなのか、とても複雑な気分です。
変っていない良い部分と、変わっていない悪い部分両方並べたつもりではありますが、どうだったのでしょう。
ほとんどがこの国で実際あったことでしたが、もうやはりファンタジーでしかなかったのかなあ。
(でも、変わっていない・似てるってことは、あの芝居であったような出来事が今の日本でも起きているかもしれないってことで。策略だとか陰謀だとかは絶対にいつの時代もあって、それを一概に悪いことだと批判しろとかそういうことじゃない。何のためにそうするか・それをやっているのかをみていかないとなりません。(菅原道真みたいにね。)
その見極めは、本来時間をかけてじゃないとできないことだというのも、わかっていないといけません。
そのうえで、声をあげるべきか否か。私個人ではまだこれが良い、悪いとはっきりとしたことを堂々と言える自信がありません。でも、この『大鏡』をやったことが、今の、この国で、わたしの出来ることの1つでありました。)

大鏡をやった後、道長君を担当して下さった磯谷氏が原作の『大鏡』やら、『大鏡』と同年代に書かれた『栄華物語』などを読んで下さったよう。
もともと良く勉強して下さった方で、ほぼ主人公に設定した藤原道長をやってくれたせいもあるでしょうが、終わってからこんなに調べたのははじめてとおっしゃっていました。
例えば、こういうことが、この作品を通してどんどん起きてほしいなとか。思うわけです。

じゃあ、まあ演劇としてどうなのかというと、やっぱり長いし、もっとやれることはあったはずでした。長かったことに関しては、本当に平謝りするしかないです。ホントすいません。
あと、演出とか、ぶっちゃけ、あんまおもしろくなかったので、もっとたのしいことしたいです。

あと、それから、また中身の話なんですが、ブログで道長さんのことを紹介した時に、関白になった方とご紹介してしまったんですが、
正式には、彼、関白にはなっていません。
あの芝居の後に続く話でも、関白にはなりません。(摂政という位には一瞬つきますが、即行辞退します。)
じつは娘や息子たちが大きくなってからは出家して、政治家はさっさと引退します。

どうしても彼の人生を通して作ってきてしまった『大鏡』なので、一応説明しておこうと思いました。
別の人の人生を通して作ってみてもおもしろかったかもしれません。『大鏡』

こんどやるなら海外に置き換えてマフィアの一家でやりたいですね。

本当は、この平安時代の人たちについては詳しくご紹介したい人物がたくさんおります。
ご紹介したい平安文学もたくさんあります。

演劇だけじゃなくとも、個人的にでも、またお話したり、ご紹介出来る場があればとてもうれしいです。

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次回の公演はまだ決まっていませんが、たぶんまた寒い時期になるかと思います。
何をやるかはまだ詳しく話していませんが、私は内田百閒とか、そのあたりの夏目まわりをやってもいいかなと思っています。
また話しあってきます。

秋はそれぞれまた忙しそうです。
でもちまきの会などはやりたいと思っているので、また色々お知らせさせてください。

長々としたメモで失礼しました。
また思い出したら付け足していこうと思います。

金谷

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