3月から4月へ。つれづれ。

気づいたら4月もおわるという。

HPの不調で一時期アクセスができない状態もあり、(現在復旧中です。)ずいぶんと遅くなりました。

新年度も色々ありましたね。どうか心穏やかに。
3月にあったことも、ちょっと言葉にしてみました。
やはり整理しきれず、とてもとても長くなりました。あしからず。

3月に、世田谷パブリックシアターの『地域の物語』という企画の発表会がありました。
世田谷パブリックシアターさまにも近年大変お世話になっているのですが、今回は参加者として参加してきました。

『地域の物語』とは、
一般公募の参加者たちが、取材をしたり、地域を見つめ、さまざまな物語を掘り起しながら、従来の形にとらわれない舞台をつくりあげるワークショップです。作品をつくるプロセスを通じて、色々な思いを共有したり、発表を通して参加者と観客の人たちが出会ったりすることも目指す…。

というもの。世田谷パブリックシアターでは毎年このような企画をやっていらして、毎年シアタートラムで発表会を行っています。このような企画があることは前々から知っていたものの参加するのはもちろんはじめて。
そして、今年は「性と生をめぐるささやかな冒険《女性編》」と題し、性自認が女性の方限定で参加者を募集し、「性と生」に関して考える場になっておりました。
私を含め、20名の様々な女性が参加。

最初、参加するにあたって、女性限定でこのようなことがやれるのはすごく贅沢で興味深いとはおもっていたものの、個人的にこれはきっと苦手だぞ。と思っていました。
なんというか、私は性別について考えることがあまりなかった、もしくは積極的に避けてきた?せいもあって、どんな風な言葉をもって話せば良いのか本当にわからなくなる。から。苦手です。
なぜ苦手なのかを今現在も上手く言葉に出来ないままなのですが、自分が女である。というふうに単純に分類されてしまうのがなんかとても嫌だなあ。とは若い頃からなんとなくおもいつづけてきたことでした。
いや、でも私は女性だし。でも、その前に人だし。みたいな。
なんというか、演劇に若い頃からであったのもたぶん影響していて、誰かとなにかを一緒にやるにあたって、かならず個人と個人で向き合わなければならぬ!みたいな感覚がす刷り込まれている感はすごくある。そして、個人は個人で考え方が同じなんてことはけしてない。みたいな感覚もめちゃめちゃ刷り込まれている。気がする。

あとはやはりあまり女として自信がないから、みたいなところももちろんある。小さいころから周りの子のほうがかわいいと思っていたし、周りの子みたいになろうとしてもなれない自分にさんざん絶望してきた気がする。
きっと女としての自分を褒めてくれる人が少なかったのもある。からそのあたりは完全にまわりのせいにしている。けど、別にその絶望は深いものでなく、そんな自分に満足していないわけでもない。

女であることに対して、まわりも寛容といいますか。なんといいますか。女らしくあれ!と強制された経験はほぼないし、女らしくない自分を批判する存在もいなかった。(もしくはそういうものを華麗にスルーしている?)と、自分では思っていて、
よくよく考えると女らしさってなに?みたいなふうにもなっていて、たとえば、明治時代の女性活動家のことなどの知識とかにたよって女らしさみたいなものをぼんやりと定義してみたり、悪く言えば本当に都合よく女らしさみたいなものを自分のなかで取り扱っていた気がします。

と、実はここまで言葉で整理できているのも、この地域の物語に参加したからで、自分の考えていることがなんとなく、すとんと落ちた感じになったことは本当に大きく変わったところ。(他人にとっては全然整理されたものではないのだろうけど、私にとっては言葉にすること自体がわりと難しかったのです。)

しかし、やはり、こんな風に考えることができているのは、本当に長い時間をかけて、参加者のみなさんのお話を聞いたり、話したりしたからで。
1月から毎週土日にWSをやっていたのですが、参加する度毎回ぐったりしていました。

本当に私は都合よく、女であることを考えてきたのに対して、他の方にはそれが肉薄した、切実な問題であることを本当に肌で感じることばかりで。
頭ではそういうことはあるんだとわかっていたことのはずが、やはり全然わかっていなかった。それに気づいたとたん、やっぱり私は語る言葉をなくしてしまうし、
それでもって、やはり、私の言葉は「若いから」とか、「経験がないから」とか、そういうふうに流されてしまうこともあって、とてももやもやする。

なんだか、そういうのの繰り返しで、マジで人と人が対話するなんてことは奇跡だな。人と人がわかりあうなんてマジで嘘だな。と本当におもいました。
なんというか、「わかった気がする。」なんて気持ちになるのも、相手にとってすごく失礼になり得る瞬間がいくつもありました。

でも、それが、すごくストレスフルではあったけど、嫌ではないのですよ。あ、でもそれは私だけかもしれない。
きっと嫌になっちゃった人もいるはず。

なんというか、わたしはそういう風になる空間がとてもクリエイティブだと感じていて、むしろ楽しく思える。
だから、発表会はきっと面白いものになると、思っていました。

でも、考えつづける。とか、感じることが面白いに変換?できるのはわりとマイナーだとも思っていて、そういうのが優位なる感じ?は芸術のなかに本当によくある気がしていて、そこが優位なる感じにちょっと辟易した感覚もあって。

それは私が普段授業とかやるときも、演劇やるときも思うことで、(国語の授業で小説やるときなんかまじでそうなんですが、)別に感じることができなくても良いよね。みたいな時はすごくある。だって辛そうなんだもん。私はそういうのが好きだし、永遠にでも考えていたいと思うたちだけど、つらい人はマジで辛いし、どちらかというと、その辛そうなのを私も感じとって辛くなる。でもいまのところ、やっぱり感じてみようぜ!考えてみようぜ!私は楽しいぜ!を必死に伝えていくしかないのかなあ。

それでこそ!と思う部分もあるし、それじゃあ悲しいな…。と思う部分もある。だから人になにかが伝わることに対してはほとんど不信感でもあります。

だから、いつもその先を気にする。分かりあえないことだけはわかりきってるから、どうする?みたいな。

欲をいえば、今回、それがあまり語られなかった気がしていて。そこの話をもっとみんなとしたかった。

あと、発表する作品が通せる状態になったとき、本番も含め、毎回感覚が鋭くなってしまったのか、なんなのか。なぜかちょっと言葉を向けられたり、ちょっと作品について話すと涙がとまらない状態になったりしてました。私だけ。
しかも、最初劇場の埃とかのアレルギーかと思ってたら違った。しかも、そのことに終わってから気づいてかなりビビった。自分の状態をコントロールできなくなるのが久しぶりすぎてびっくり。こんな経験がまだまだできるなんて。なぞの高揚感とともに、自分の未熟さを実感。

誰かの話をじっくり聞いたり、自分とじっくり向き合うことができるのは本当に貴重だなあと感じます。
こんな場が作れる世田谷パブリックシアターがすごいのはもちろんのこと。

でも、やっぱり、発表会のあとの、ポストトークで起きたあの拍手の瞬間に思い切り絶望したり。
まだそんなことを話さなきゃならないのか。とか。今現在、そんなことで揉めているのようだと、未来かなりヤバくないか?とか。いや、単純に「そんなこと」とか言っちゃってる私がヤバいのは棚にあげているけども。

そこまで考えるようになったことは自分を褒めてあげたいきがする。

もうちょっと、代名詞のあたりを整理して言葉にしたいのですが、今はここまで。

地域の物語は発表会で終わりじゃないのが、こういう人間にとっては本当に救いです。

でも、やはりこれは世田谷だからなせることだなあというのも、本当にひしひしと感じます。

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追記
4月に、今企画のふりかえりと、地域の物語男性編の発表がありました。

3月の本番から約二週間後のふりかえり、皆なんとなく春めいていました。

ふりかえりの前に地域の物語のこと、誰かにはなしたかったのだけど誰も会ってはくれず。さみしい心のまま参加したら上手くしゃべれなくてびっくりしました。でもすぐに3月の空気を思い出しました。
追記より上記の内容はすでにふりかえりのまえにあらかた文章にしていたので、少し他の人とも共有できたかも。

ふりかえりの話も、濃かった。表現の自由の程度とか、命のこととか、この先のこととか。
お花の意味は私にはやっぱりわからなかった。お花を渡すなら参加者含めた全員なんじゃねぇのと思った。

ふりかえりの次の日に、男性編の発表会。実は私もとても爽やかに観ていた。
「男性であること」もきっとものすごく難しいのだ。どこかで男という性は社会が決めるみたいなことを聞いたことがあるけど、「男性」は「社会」との関係が結構でかいのかな。いや、もちろん「女性」もそうなんだけど。
(「女性」は、「女性」→「社会」って感じ。「男性」は「男性」←「社会」みたいな力の方向?あるいはその方向の逆転がしばしば起こるみたいな。でも、「女性」と「男性」でわけて考えるうちは、その矢印の方向が一緒にならない?感じがする。)
それでこそかもしれないし、女性編とは時間のかさねかたが違うからそれのせいかもしれないけど、女性より「仕方なさ」の置場所が潔い感じがした。
そして私はわりとそこにかっこよさを感じる。

やはりすごく大きなことを経験させてもらった気がする。急に苦手だったジェンダー論とかの本に目がいくようになっている。
あたりまえだけど、改めて誰も彼もなにかしらの問題をかかえいるとおもうとやはり恐くなってきている。
それがきっとわかりあえないのも悲しくなってきている。
それでも考え続けることができるのはやはり救いなんじゃないかと改めて思っているの。

金谷

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