『こころ』のこと7

今日は朝から姉ちゃんと除雪作業と言う名の雪だるま作りをしてました。

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右のが私が作ったやつ。
顔も掘ったのだけどイマイチわかりにくい。

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姉上のはロカビリースタイル。

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あとうちの犬

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で、いよいよあさってとなりました。『金谷先生が普通に授業をする会』
今のところ人が少ないので当日飛び込みも大丈夫そうですよ。
しかしご予約お待ち致しております。

とりあえず11日はひたすら読む予定です。音読したい方是非!

で、恐らく事前の『こころ』のことは今日で最後。だとおもう。
今日は予告していた明治天皇、そして乃木大将について。

『こころ』の物語について、「先生」と「お嬢さん」と「K」の三角関係の話がメインっぽくお伝えしてきましたが、昨日必ずしもそうじゃないことは何となく書きました。
実は、『こころ』の物語の、そもそもの、根底のところを流れるものをになうのは、皮肉にも(?)現実の物語であります。

私たちは知らない、本当にこの世界で起こった出来事。それが、明治天皇の崩御です。

大政奉還という言葉で皆さまご存知かとおもいます。江戸の終わり、それから、近代の日本を象徴する人物です。
その明治天皇が崩御されたのが、 明治45年(1912年)7月30日。
天皇が崩御されたとなれば、日本中で大騒ぎになるのは日本で生きていれば当たり前ですが、明治というと、まさに激動の時代。鳥羽・伏見の戦いや戊辰戦争のような内乱にはじまり、日清戦争、日露戦争と諸外国との戦争が起こり、後の第一次世界大戦に続くさまざまな争いが起きた時代です。
そんな混乱した時代に、国をひっぱる役目をしていた明治天皇。そんな存在がいなくなるなんて、当時の国民にとってどれほどショックなことだったのか測り知れませんが、
その後にもっと国民の心を揺さぶる出来事が起こりました。それが乃木大将の殉死です。

乃木希典というひとを聞いたことがないことはないと思いますが、この方は当時の陸軍大将。日露戦争での活躍が一番有名かと思いますが、この方は教育者でもあり、学習院院長を務めたこともあります。明治天皇の勅命で院長になり、次々代の昭和天皇の養育も任されていました。
そんな乃木大将が、大正元年(1912年)9月13日、明治天皇大葬が行われた日の午後8時ころ、奥様とともに自刃して亡くなります。
実は、この明治天皇大葬の日に殉死した方は多くいました。が、乃木大将だけ今でもとり立たされるのは、彼がその当時、とても影響力のある人物だったからです。今でこそ、色々な評価が出ている人物ではありますが、その当時は日本国内のみならず、世界でも有名になったほど、彼は英雄視されていました。

そんな人が、主君の後を追って死んでしまった。

昔のことだから普通と思うかもしれません。しかし、もう一度言いますが、この時代、色々なことが変化していた時代なのです。
近代化と言う風に簡単に言うことはできますが、これは別に、社会のことを言っているのではなく、人の心のありようも変って来たことを指します。(ていうか、人の心が変わらないと社会は変わりません)
言っちゃえば、今の私たちみたいになる途中の時代だった。新しい(今に近い)心のありようと、昔の心のありようが混在していた。

相次ぐ戦争の中で、自分はどんなふうに心を持っていたらいいのかということを、たくさんの人々が考え始めた時代でした。

そんな中で、英雄が殉死してしまう。

当時の文化人たちが残したものを見るとわかりますが、この死に対してさまざまな人たちが意見をしたのです。これは英雄の英雄たる所行なのか。古い時代の、古い考えの、ただのかっこつけなのか。新しい時代に生きられなかった悲劇なのか。
そして、夏目漱石もこの死をリアルタイムで感じた一人。漱石先生の意見は実は、この『こころ』の作品の中にあります。

『こころ』の中でも、明治天皇はリアルと同じように崩御されます。そして乃木大将が殉死する事件が起きます。
「私」の父親はそれをきっかけに病状が悪化します。そして、「先生」はそれをきっかけに、死を決意します。

前にちょろっとお伝えした通り。下の部分は「先生」のながいながーい手紙という形式です。そしてその手紙は、「先生」の遺書なのです。

では、最後に、下の本当に最後の超核心の部分を載せますので、嫌な方は読み飛ばしてください。

「…すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後あとに生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白に妻にそういいました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたらよかろうと調戯いました。」

「私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものと見えます。妻の笑談じを聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答えも無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がしたのです。
 それから約一カ月ほど経ちました。御大葬の夜私はいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だといいました。
 私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。西南戦争の時敵に旗を奪とられて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日まで生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定して見ました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間あいだ死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。
 それから二、三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由がよく解わからないように、あなたにも私の自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。あるいは箇人のもって生れた性格の相違といった方が確かかも知れません。私は私のできる限りこの不可思議な私というものを、あなたに解らせるように、今までの叙述で己を尽つくしたつもりです。…」

この後にもう少しだけ続いて『こころ』は終わります。

乃木大将の殉死のことは私たちにはもう一生わからないことです。
しかし、その当時の人たちも既にわからない思いを抱きつつあったし、本当は、当時の人たちでも誰も乃木大将の気持ちを分かる人なんて居ないのだろうけど。
他の作家たちも、この殉死に対して色々作品の中で、あるいは批評として書いたりもしていて、それぞれさまざまな気持ちを持っていたようです。

なんだかそういうものに対して意見する態度を示すことができるのは、やはりある程度の能力のある人間でないと。みたいな。そんな空気は今でもあることなんですが、

漱石先生がなんとなくいいのは、「乃木さんが死んだ理由が良くわからない」とちゃんと書いてくれているところかなあと思います。
作品が、ちゃんと、色々な人に読まれることを知っているから、こう素直な言葉をチョイスしてくれたのかなあと。勝手に妄想します。

あ、ちなみに、乃木大将と一緒に殉死した乃木大将の奥様。名前を静子さんと言います。このことを漱石先生は意識して「お嬢さん」の名前をつけたのかどうかわかりませんが。「お嬢さん」の名前も静でしたね。

乃木大将の奥さんの静子さんは乃木大将とともに亡くなりました。

では、「先生」の奥さんの「お嬢さん」はどうなるのでしょうか。
ていうか、「先生」は本当に死んでしまうのでしょうか。

あとは、是非、『こころ』をよんでみてください。
読んだら是非、金谷と語ってください。

そして、『こころ』を読んだことある人も、読んだことない人も。是非一緒に授業企画でお話しできたらと思います。

それでは。みなさまのご参加心よりお待ちしております。
おやすみなさい。

金谷

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