『こころ』のこと3

『こころ』について。たんたんと三回目!

そういえば、昨日載せた画像はかの有名な岡本一平の漱石先生の絵。みたことあるかたもたくさんいると思います。
岡本一平は岡本太郎のお父さんです。(ちなみに母は今年のセンターにでてた岡本かの子。)岡本氏は漱石先生に漫画を評価されて漫画家として有名になりました。

漱石先生の時代は、色んな文化人(?)がたくさん世に出た時代です。この人(有名人)とこの人(有名人)知り合いだったんだ!とかはよくある話。
漱石先生は木曜会という会合(サロン?)をひらいて、当時の教え子や若手の作家と交流をしてたことでも有名で、木曜会に出入りしていた人たちは今見ても鼻血でるくらい超豪華です。

で、今日は『こころ』の登場人物の一人、「お嬢さん」についてさっき考えたのでそのことをつらつら書こうと思います。たぶん広がって、漱石先生の書く女性の話になると思います。
今日も主観でガンガンお送りします。

教科書に載っている部分ではあまり印象に残らないかもしれない「お嬢さん」。三部構成の下で「お嬢さん」と呼ばれるので、ここでも「お嬢さん」と言ってます。上・中では「奥さん」、「妻」などと呼ばれます。そう、「お嬢さん」は、「先生」の奥さんであります。

『こころ』の物語を構成する芯の一つとしてあるのが、この「お嬢さん」に「先生」と「先生の友人」が恋をするという、いわゆる三角関係の物語です。

結果、「お嬢さん」は「先生」と結ばれて、「先生」の「奥さん」になるのですが、それまでに何があったのかが下の内容といってもいいくらいなので、「お嬢さん」の存在はとても重要なのですが、授業では彼女のことをメインに取り上げる機会は少ないです。(たぶん)

二人の男の心を奪った「お嬢さん」が可愛い系なのか、キレイ系なのかはわかりませんが、教科書に載っていない部分では、彼女の魅力がいかんなく発揮されています。それではここで、「お嬢さん」の可愛いシーンをご紹介しましょう。

まずは定番のこちら。↓

「…私は移った日に、その室の床に活けられた花と、その横に立て懸けられた琴を見ました。どっちも私の気に入りませんでした。私は詩や書や煎茶を嗜たしなむ父の傍で育ったので、唐めいた趣味を小供のうちからもっていました。そのためでもありましょうか、こういう艶めかしい装飾をいつの間にか軽蔑する癖が付いていたのです。
 私の父が存生中にあつめた道具類は、例の叔父のために滅茶滅茶にされてしまったのですが、それでも多少は残っていました。私は国を立つ時それを中学の旧友に預かってもらいました。それからその中うちで面白そうなものを四、五幅裸にして行李の底へ入れて来ました。私は移るや否や、それを取り出して床へ懸けて楽しむつもりでいたのです。ところが今いった琴と活花を見たので、急に勇気がなくなってしまいました。後から聞いて始めてこの花が私に対するご馳走に活けられたのだという事を知った時、私は心のうちで苦笑しました。もっとも琴は前からそこにあったのですから、これは置き所がないため、やむをえずそのままに立て懸けてあったのでしょう。
 こんな話をすると、自然その裏に若い女の影があなたの頭を掠めて通るでしょう。移った私にも、移らない初めからそういう好奇心がすでに動いていたのです。こうした邪気が予備的に私の自然を損なったためか、または私がまだ人慣れなかったためか、私は始めてそこのお嬢さんに会った時、へどもどした挨拶をしました。その代りお嬢さんの方でも赤い顔をしました。
 私はそれまで未亡人の風采や態度から推して、このお嬢さんのすべてを想像していたのです。しかしその想像はお嬢さんに取ってあまり有利なものではありませんでした。軍人の妻君だからああなのだろう、その妻君の娘だからこうだろうといった順序で、私の推測は段々延びて行きました。ところがその推測が、お嬢さんの顔を見た瞬間に、ことごとく打ち消されました。そうして私の頭の中へ今まで想像も及ばなかった異性の匂いが新しく入って来ました。私はそれから床の正面に活けてある花が厭でなくなりました。同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。
 その花はまた規則正しくしおれる頃になると活け更えられるのです。琴も度々たびたび鍵の手に折れ曲がった筋違の室へやに運び去られるのです。私は自分の居間で机の上に頬杖を突きながら、その琴の音を聞いていました。私にはその琴が上手なのか下手なのかよく解わからないのです。けれども余り込み入った手を弾かないところを見ると、上手なのじゃなかろうと考えました。まあ活花の程度ぐらいなものだろうと思いました。花なら私にも好く分るのですが、お嬢さんは決して旨い方ではなかったのです。
 それでも臆面なく色々の花が私の床を飾ってくれました。もっとも活方はいつ見ても同じ事でした。それから花瓶もついぞ変った例がありませんでした。しかし片方の音楽になると花よりももっと変でした。ぽつんぽつん糸を鳴らすだけで、一向いっこう肉声を聞かせないのです。唄わないのではありませんが、まるで内所話でもするように小さな声しか出さないのです。しかも叱られると全く出なくなるのです。…」

下で「お嬢さん」がはじめて出て来るシーンです。もうかわいい。ていうか下では「先生」の視点で私たちも「お嬢さん」を見ることになるのでかわいいに決まってる。
(下は「先生」の過去の時系列なので「先生」が語っているという文体です。私という一人称で視点を動かしている「先生」はこのころ大学生、「お嬢さん」は女学生です。)
下では「お嬢さん」はよく笑う女の子として描かれます。笑うといっても色々な笑い方をしますが。

笑う「お嬢さん」の代表的なシーンがこちら。↓

「私はKに向ってお嬢さんといっしょに出たのかと聞きました。Kはそうではないと答えました。真砂町で偶然出会ったから連れ立って帰って来たのだと説明しました。私はそれ以上に立ち入った質問を控えなければなりませんでした。しかし食事の時、またお嬢さんに向って、同じ問いを掛けたくなりました。するとお嬢さんは私の嫌いな例の笑い方をするのです。そうしてどこへ行ったかあててみろとしまいにいうのです。その頃ころの私はまだ癇癪持ちでしたから、そう不真面目に若い女から取り扱われると腹が立ちました。ところがそこに気の付くのは、同じ食卓に着いているもののうちで奥さん一人だったのです。Kはむしろ平気でした。お嬢さんの態度になると、知ってわざとやるのか、知らないで無邪気にやるのか、そこの区別がちょっと判然しない点がありました。若い女としてお嬢さんは思慮に富んだ方ほうでしたけれども、その若い女に共通な私の嫌いなところも、あると思えば思えなくもなかったのです。そうしてその嫌いなところは、Kが宅へ来てから、始めて私の眼に着き出したのです。私はそれをKに対する私の嫉妬に帰していいものか、または私に対するお嬢さんの技巧と見傚してしかるべきものか、ちょっと分別に迷いました。…」

キャッキャと笑う感じもあるのですが、「先生」の印象に残っているのはこういう、無邪気な女の子にも見えるし、妖艶な女性にも見えるような笑い方みたいです。
(「K」という人は先に説明した「先生の友人」です。ここでの「奥さん」は「お嬢さん」の母親です。)

「お嬢さん」は他の登場人物より結構笑ったり泣いたりと感情が表によく出ます。上では、「先生」の妻になった「お嬢さん」が「私」の前で泣いてしまうシーンもあります。
それがこちら↓

…「奥さん、私がこの前なぜ先生が世間的にもっと活動なさらないのだろうといって、あなたに聞いた時に、あなたはおっしゃった事がありますね。元はああじゃなかったんだって」
「ええいいました。実際あんなじゃなかったんですもの」
「どんなだったんですか」
「あなたの希望なさるような、また私の希望するような頼もしい人だったんです」
「それがどうして急に変化なすったんですか」
「急にじゃありません、段々ああなって来たのよ」
「奥さんはその間始終先生といっしょにいらしったんでしょう」
「無論いましたわ。夫婦ですもの」
「じゃ先生がそう変って行かれる源因がちゃんと解るべきはずですがね」
「それだから困るのよ。あなたからそういわれると実に辛いんですが、私にはどう考えても、考えようがないんですもの。私は今まで何遍あの人に、どうぞ打ち明けて下さいって頼んで見たか分りゃしません」
「先生は何とおっしゃるんですか」
「何にもいう事はない、何にも心配する事はない、おれはこういう性質になったんだからというだけで、取り合ってくれないんです」
 私は黙っていた。奥さんも言葉を途切らした。下女部屋にいる下女はことりとも音をさせなかった。私はまるで泥棒の事を忘れてしまった。
「あなたは私に責任があるんだと思ってやしませんか」と突然奥さんが聞いた。
「いいえ」と私が答えた。
「どうぞ隠さずにいって下さい。そう思われるのは身を切られるより辛いんだから」と奥さんがまたいった。「これでも私は先生のためにできるだけの事はしているつもりなんです」
「そりゃ先生もそう認めていられるんだから、大丈夫です。ご安心なさい、私が保証します」
 奥さんは火鉢の灰を掻かき馴ならした。それから水注しの水を鉄瓶に注した。鉄瓶は忽ち鳴りを沈めた。
「私はとうとう辛防し切れなくなって、先生に聞きました。私に悪い所があるなら遠慮なくいって下さい、改められる欠点なら改めるからって、すると先生は、お前に欠点なんかありゃしない、欠点はおれの方にあるだけだというんです。そういわれると、私悲しくなって仕様がないんです、涙が出てなおの事自分の悪い所が聞きたくなるんです」
 奥さんは眼の中うちに涙をいっぱい溜ためた。…」

(上の部分なので、タイムラインは現在。奥さんが「先生」の妻となった「お嬢さん」のことです。ここでの「私」は、依然紹介した登場人物「私」)
「私」はあまり女性に馴れていないので、突然女の人に泣かれてドキッとしたんではないでしょうか。しかも人妻ですしね。いや、引くか逆に。

まあ、また長々と抜き出しただけでどうってことはないのですが。
「お嬢さん」は可愛い系なのではないかと私は思っています。ものすごく可愛いわけではないやつがいい。

で、『こころ』の「お嬢さん」も多少そうなのですが、漱石先生の作品に出て来る女性は何となく、男を手玉にとるような小悪魔感というか。ちょっと強めの印象の女性が結構います。
時代が時代なので、このころに出はじめた新時代の女という感じなのでしょうか? 漱石作品の女性について研究した本もたくさん出ているので、そういう視点の研究もきっとおもしろいんだと思います。
私個人としては、何となく、海外の古典文学のヒロインたちをほうふつとさせる女性だなあと読みながら思うことがあります。
そういえば海外の古典文学のヒロインってどうしてあんなに「私は!」みたいな感じなんでしょう。(それもまあ、時代か。)
可愛いけど、本当にたまにむかつきます。

そうそう。そういや。「お嬢さん」は、『こころ』の登場人物の中で唯一名前が出てくる人なんです。上で、「先生」が「お嬢さん」のことを「おい静」と呼ぶシーンがあります。
静なのか静子とかなのかはわかりませんが、「静」という名前の女性です。名前はキレイ系ですね。

そんなわけで、今日はもうおしまい。

おやすみなさい。

image

金谷

この投稿へのコメント

コメントはありません。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

この投稿へのトラックバック

トラックバックはありません。

トラックバック URL