授業企画『夏の終わりの羅生門』三日目

​最終日!

本日はお昼からまるまるリーディング創作!の予定でしたが、昨日話題に出ていた「普通に読む」ことについての問題が大きく、みんなでずっと考えていました。

今日いるメンバー「普通に読む」ことが難しいと感じるメンバーばかり。試行錯誤のうちで、言葉とイメージのこと。声にしたときに、いったい「誰が」「読んで」いるのかということ。受けとる側の個人的感覚の差違。など。様々な問題がいっきに押し寄せてきて、全員パンク状態に…。

個人的には、『羅生門』の地の文なんかは特に、音声表現者は語り手(作者)になることでしか読めないと思っていたのに、皆は音声表現者の個人として読むことが「普通」と言っていたのが衝撃的すぎました。

(や、語り手になることは実際無理なんだけど、その言葉を語り手以外が「読んでいる」ってのは、物語を表現するときにおかしいことになるって意味ですね。私がおもっていたのは。)

一方で、個人として読む方は、語り手になるなんておこがましい。(わかる)とか、絶対的に語り手ではないから代わりに読む、物語の責任はおわない立場にいる。(わかる)などの意見がでていました。なるほど!

「普通に読む」ことを難しいと思っている人たちのなかでも本当にあらゆる差違があって、これは、リーディング(朗読)をこれからどうやって作ればいいのか…。と完全に迷い道。

本来は演出家が正しさを決めて、つくるのかな?と思いつつ。今回はそれをしてもおもしろくない気がして。

とりあえず、『羅生門』を読んで、それぞれがイメージする(視覚的)な絵とか、その共通性がどこまで我々のなかにあるのかを探るべく、

モノを使ってそのイメージを実際に視覚化してみることになりました。

『羅生門』の舞台の羅城門は、平安京の入り口にあたるところにありました。現在の研究では、その高さは約21メートル(五階建てのビルくらい)とされているらしい。

なるほど。

こんな感じか?(真ん中にいるのが下人)

そこから、文の視点がどこからのものなのか?(例・語り手は今どこから下人を見ているのか? 遠いのか近いのか?上から?下から?)を考えていたら、

映画を撮っていました。超展開。

『羅生門』の前半部分のみですが。そこまで読むことも大変だったし、(朗読の人たちは本当にすごい。)そしてもちろんモノを使って視覚化するのも大変でした。(映像の人たちも本当にすごい。)

せっかくなので撮影した映像の一部を公開してみます。(音声は別撮りしていませんので聞きづらいです。)みれるかな…?

ほかにも撮ったので現在編集中です。完成したらまたどこかで。

イメージを言葉(音声)で表現し、言葉(音声)からイメージを享受することが普通だった時代から大きく変わってしまったこと。

それでも、やはり「言葉」の本質は文字ではなく、音にあること…。

ほんと、読むことがこんなにもできないのはいったいなんでなんだろう?

まだまだ、全然、わかりません。

でも、考えつづけています。

あきなさんやもえかさんも今日のことを呟いていたので引用させていただきます。↓

スイッチが入ったみたいに自分にとって一番響きやすい(かっこいい?)音を、鼻につく抑揚?で読むってのが本当に苦手。中の人がさっきまで普通に喋ってたのにリクエストされて急に違う人の声になるみたいな。例えが下手。(平澤)

今回のWSでは個人的に芥川さんにも朗読にも完封されていまいました。芥川さんにはチャンネルが合わずじまい。朗読はせいせいするほど。あれは選ばれし者のみが許される聖域なんじゃないのか。とりあえず土俵には立ちました。風前の灯です。(佐々木)

今回、三日間と短い期間でしたが、とても体力を使い、最後は皆ヘロヘロになりました。

ヘロヘロになりながら、最終日はおいしいお好み焼きを食べておわりました。

ご参加いただいた方々のおかげで、最初から最後まで、本当に贅沢で素敵な時間でした。

「言葉」について改めて考えてなおそうと強く思うことができました。

ご参加いただきました皆様、見守ってくださった皆様も、本当にありがとうございました。

そして、来週29日(月)の18時~はちまきの会をやります。

アフター羅生門となるか?また別のことをやるか?いま考え中です。

もしよろしければ、こちらも是非遊びにきてください。

お問い合わせはこちらから!

info@aoneri.com

どうぞよろしくお願いいたします。

金谷

この投稿へのコメント

コメントはありません。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

この投稿へのトラックバック

トラックバックはありません。

トラックバック URL