整理
まだちょっとうらうらしていて不安定な体内なのですが、
無理矢理にでも言葉にしてみようと思います。
垂れ流します。お目汚し失礼します。
あらためて、この度はご来場いただき、誠にありがとうございました。
皆様からいただいたご感想を読んだり感じたりして、あらためて、「言葉」というものがこんなにも人それぞれ認識が違うものなんだ!と、驚き、感動、絶望していたりして。
いや、当たり前すぎるのだけれど。
そして、やる前にもわかりきっていたことなんですが、
でかいし、こわいし、勝てる気がしない。
勝ち負けで例えることでもないのは百も承知なんですが、ほかに言葉がみつからないのでとりあえず。
でも、とにかくぶつかってみたことにこちらがわとしてはとても意義があって、良い敗北感はある。
しかし、演劇としてはどうだったのか。
つくっている最中もずっと思っていたのですが、これ、演劇として面白いのか?
演劇やってます。っていってんのになにいってんだコイツまじ死ねよ、そんなこと思って金とってんのかよクズって感じかもしれませんが、言葉が上手く伝わってなかったらごめんなさい。私は一応演劇に対して真剣なつもりです。で、もう数年前くらいから演劇というものがよくわからなくなってます。愛しているからこそ拗らせていると信じたいのですが、今はそう堂々という自信もあまりありません。
個人的には前回公演の『ニュークリア・エイジ』を終えた時点で、私はもう演劇をつくれないのでは?と思っておりました。
まあそれはおいといて、
『言葉・0』は最初はもっと演劇してやろう感で台本もそんな感じだったのですが、だんだん変わってきた。とりあえず、あの段階ではあんな感じになった。もっとやればもっと違う何かになった?
なので、もしかしたら、すごく中途半端な状態を発表しようとしている?という危惧は常にあったのですが、時間がなかった、とかではなくて、これでもいいんじゃないか?と思ったのも嘘ではありません。
「言葉」については長いスパンで色々なアプローチをしようと最初から考えていたので、その初めは「言葉」の状態を探ることをしたいという気持ちがありました。
役者さんらとは芝居をつくっていく過程でその人が言葉というものをどう認識しているのかなんとなくわかってくる気がするのですが、お客さまのはわからない。
そんなのは、普通に知らない人でもこちらから話してみればお話してくれるだろうとも思います。色んな人にお話をききにいったほうが早いかもしれません。でも、内臓みせろやっていって、みせてくれる人は多分いない。
私がここでいっている言葉の認識は、演劇の場で言葉はどういうふうに認識されているのかということと、あと、言葉の認識って、内臓みたいな、悪くならないと意識しない部分なんじゃなかろうか?
お客さまにはお客さまの思う言葉がある。
だからこそ、演劇の場でのお客さまの無意識の言葉を引き出せないかと思っていました。
しかし、私の得意めな演劇は物語と割りと強い関係性があるし、物語で言葉そのものへの認識にフィルターをかけすぎてしまうと、あまりよくないのでは?とか、
しかし、あんな観念的な台詞の羅列じゃなくて、もっと身近な言葉で紡ぐこともできたはず。でもやらなかった。少しでも素敵にしてしまえば、人はかならずそちらにひかれてしまう?
ウーン。
その辺もバランスなのですが、今回は、皆の中身を引きずり出す装置が欲しいと思いました。
いさぎよく、WS形式にしてしまうのも考えました。そっちのほうが楽しかったかもしれません。しかし、そっちのほうがきっと私にとっては楽です。私は楽して演劇をつくりたくない。
結局、私のくだらないこだわりかもしれないのですが、
そういうことを演劇でちゃんと素敵にパッケージングして提供できれば良かったのですが、私は本当にパッケージングが下手くそで、お客さまによっては本当にがっかりさせてしまったかとも思います。
得るものだけ得てきた感がいなめなくて、本当に、生きているのすら申し訳ない気持ちと、やけに強気な気持ちが混在中です。
なにやるにもそうだけど、もっと上手い方法はいくらでもあったはず。それはもう全て私のいたらなさです。
言葉は人に、人は言葉にあらわれます。私は台詞で、役者らは音と身体で。
お客さまは無意識に発する言葉らしいもので、あるいはアンケートなどで。
今回は池上さんの記号論がとても影響していて、記号をつくる営みそのものが文化だということも真に受けてみて、そういう営みをなにかしらできないかと思っていました。
外からみていて、役者さんらは今回お客さんをうつす鏡のようになっていました。毎公演空気が違うのは、あたりまえだけど確実にお客さんの意識が違ったからだと思います。
お客さんの言葉らしいものを敏感に察知するしくみにはなっていたんだとおもいます。あの空間。
私は根本がわかりません。多分、まわりの人らはそれらに折り合いをつけてより良く生きているのだと思います。尊敬する。
でも私は、それができません。それは、いわゆる「ちゃんと」を生きていく資格がないことかもしれません。でも、そういうやつだってとりあえず生きてます。
当たり前を当たり前と言ってしまうことが、私は今一番危惧していることです。
しかし、今回みたいな感じの「人」の捉え方はやはりあまりよくなかった気もするし。失礼だった。すみません。本当に。
演劇を道具として、もっと上手くなにか。
もう。こんな言葉じゃわからない?
馬鹿野郎、愛さないとみえないものがあると言ったじゃないか。
とにかく、なにか欠けている自分と、
ちゃんと先が見えなくなって、この感じは割りとジタバタできそうで。
6月頃になったらまたジタバタする元気も戻っていることを期待して、6月にまた言葉についてやります。
つぎは漢字かやまとことばかなあ。0をへたので、少し範囲が明確になると思います。
傾向はわかった気がする。対策はまだです。
考えます。考えすぎといわれようとも、私は人生でいちどくらいは真面目に考えたいので。
昨日バイト先で、眠気と疲れと身体の傷みでフラフラしながら野菜切ってる社員さんをみて、やっぱり皆このぐらいちゃんと生きてるんだと感動すらしたのです。
あ、あとちゃんと恋愛もしようと思う。
ああ、とりあえず、全然整理されてなくてすみません。気持ちわるくなりながらつらつらと。
思い出したらまた書きかえていきます。
オエー
金谷
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