『遠野物語 ―super IHATOV remix!!!―』について

9月になりました。まだ暑い日もありますね。

改めてのご挨拶が大変遅くなってしまい、誠に申し訳ございません。
青山ねりもの協会第十一回公演『遠野物語 ―super IHATOV remix!!!―』全公演終了いたしました。皆様、本当にありがとうございました。

ご来場いただいたお客様には、長時間、狭いお席でのご案内になり、ご負担とご迷惑をおかけしてしまいました。また回によっては数々の不手際が重なってしまい、大変申し訳ございませんでした。青山ねりもの協会員一同、猛省しております。
この場を借りて、改めて、心よりお詫び申し上げます。

本当に、御礼も謝罪も遅くなってしまい、それもまた申し訳なく思っております。

同時に、心からの御礼をお伝えしたくてこうやって書いているのですが、個人的にはいまだに心身共に回復していない状態でして、ちゃんとお伝えできるか不安すぎて、いや、もはやこの時点ですでに駄目かもしれませんが、いや、でも、できるだけ早く伝えたいけどやっぱりきっと全然伝わらないことも承知しておりますのもひっくるめまして、
本当に、ご来場いただいたお客様はもちろんのこと、ご来場いただけなかった方も、関係者の方々にも、心からの感謝を申し上げます。

そして、なんとか今回の作品について思うところを書かせていただきたく思います。毎回一応書いているやつです。各所への連絡も滞っているので、こんなことやっている場合じゃないかもしれませんが、たぶん今逃したらだいぶ書かないので、お願いします。
しかし、大変なことになってしまったら、申し訳ない。( たぶん、まとめる能力がいつも以上に低下しているのでくそ長い。)

気づいたら驚くべきほどに心身共にボロボロになっておりまして、自分でもびっくりしております。内容的にはそんなにボロボロになるような話ではなかったろうに。と高をくくっていましたらこのザマです。なんでなんでしょう。もう。

今回の公演、ゲネの時点から私個人の中ではうまくいかないことだらけで、どうしたらいいんだ?どうしたらいいんだ?をずっと考え続けて、悔しい!死にたい!とずっと思いつづけておりました。愚かなことにずっと考え続けていたせいで体調管理もできないわ、メンタルも管理できないわで、完璧に駄目な状態になっていたことを、恐ろしく馬鹿なことに自分でも気づかなくてそのまま突っ走ってしまい、そのような状態でお客様の前に立ったことを本当に深く反省しております。

それでもっていよいよあほらしいことに今でもどうしたらいいんだ?をずっと考えております。なかなか回復しない理由はそれです。
なにがそんなにって、自分の中で、本当に全部が全部「何かが違うぞ」ってなっていて、いや、それでもお客様の中にはありがたいことに楽しんでくださっている方がいて、お褒めの言葉をいただいたときに、「え?まって、今どこで何を観てきたの!?教えて!!私にも!みせて!!!」みたいな風になっておりました。
このもやもやは本当に言葉にしずらいことなのでなかなか説明できなくて申し訳ないのですが、
公演中に平澤さんが呟いていた言葉が今のところ一番わかりやすい。ので引用させていただきます。↓↓

これだ、と掴んだ線がどこへも繋がってなくてするりとすりぬける感覚。どこで間違えたのか見誤ったのか、わからない。対処法もわからない。どうしよう迷子だ、と思った。はじめから迷っていたのか?なんだろうこの感覚は。こわい。絶望した。

↓↓

平澤さんはまたべつのところでこういうことを思っていたに違いないのですが、私もこんな感じで本番期間の日々を過ごしておりました。

役者方々のなかでもそういうものを感じ取っていた方は多く、みんないろいろ悩んでいた気がします。 (たぶん)
なんだか皆、いままで積み重ねてきたものが、あるいは前の回をやって得たものが、次やるときには一気に通用しなくなった感覚がどこかしらにあったようで、(たぶん)それが顕著にあらわれて驚いている方もいました。(それが疲れとか、練習不足とか、そういうのが直接の原因でないことは確かなのです。なんだか、不安な怖い思いをさせてごめんなさいね。いや、私がそうさせたわけじゃないかもしれないけども。)

とりあえず、私の今のところ言葉にできる範囲で何とか言葉にしてみますと、その場にいる全員(それはお客様も含めて全員という意味です。)の体や心の奏でているリズムが全部自由で、(いや、そんなものもちろん当然だし、そんなもの目には見えないし、感覚だし、感じている私の問題だということもわかっていますが。) 空間自体がわりと対面座席とか、役者と近いとか、語りかけるとか、上も下もな感じとかで、そういう奏でているものがバンバン出やすいというか、いつもならそういうのの逃げ場があるのに逃げ場をなくしていたため、ぎゃんぎゃんひびきあうというか、空間がカオスな感じはすごくしました。
それが不協和音になってしまう日もあれば、なんか変だけどいいかも!な日もあったりして、今思えばそれをめちゃくちゃ楽しめばよかったのですが、私の生来のまじめさが仇となり、それを愚かにも統制しようとしたのが私の失態の一つ要因にあるかと今のところは思っています。そうすると、抑圧した反動がどこかで出てくる。それが悪い方にでてしまうことがもしかしたら多かったのかも。とか。
そして楽しむといっても、私はまず考えてしまうタイプで、結局自分自身がどう楽しめばよいかわからなくてお客様にも、役者方々にも提示できず、考えるばかりになってしまったのかもしれない。(いや、明日にはこんな考えは全く別のものに変わるかもしれない。そのくらい言葉にしづらい。から、今も考えています。)

いや、いや、今思えばそういう作りにしたのは自分自身であり、もっとしっかりと今起きていることを冷静に見て対処したり、できないのならもっと最初の段階からしっかりと作戦を立てていればよかったのですが。本当に悔しい。
だって、原作の『遠野物語』自体がそういう風にみる人によって姿を変えるんだから、そりゃあこっちだってそういう性質に影響されるにきまってるんだから。
いや、いや、そういうものをわかっていたつもりになっていたことが本当にかっこ悪いし、情けないです。

私はじゃあどうすればよかったのかといえば、一つ言えるのはその空間を空気を読んで姑息につなげるようなことじゃなくて、やはりぶち壊すことだったんじゃないかと思っています。(この作品に出てくる人々のモデルになっている人たちはもう皆死んでいるってこととか、私たちもここにいる全員明日には死ぬかもとか、そういう「なにもなくなるぞ」ってことをもっと意識すべきだったのかもしれません。)

なんだか、ああすればとか、こうすればのマイナスな話ばかりで本当にすみません。
この作品自体が悪いものとして言っているわけではありませんし、ちゃんとこちらも良いところは良いと思っているからこそ、こういう風に言っています。(もちろん、クソ長いことを除けばですが。)
むしろ、一方ではこんな不思議な(という言葉は使いたくないな。ちくしょう。)形をした作品がよくできたなともおもっています。すげえな。なんだこれ!って心のはしっこで思っています。

しかし、それにしたって、お客様のお力を借りるまでに、なんでもっといろんなことをうまくできないか。
今述べたことのほかにもいろいろな要因がたくさんたくさんあるのです。
でも、本当になんでもっとうまくできないのか。いつまでたっても成長しない自分には腹が立ってばかりです。

ああ、でも。こんなに「こんな風に毎回新しいタイプの絶望がずっと繰り返されるのならもう芝居なんてやるべきじゃねえし、やりたくないし、じゃあこれからどう生きるかって、生きたいとかじゃなく、もう死にたい。」って考えた(考えている)のは『ニュークリア・エイジ』以来かもしれません。
それはそれで、もう、死んじゃうくらいうれしいことかもしれないぞ。
なんだかクソほどの失敗とクソほどの成功をいただきましたようです。本当にありがとうございます。

でも、今回もお客様をはじめ、劇場の方々や、出演者の方々や、ねりものまわりの方々や、家族やら、それはもうたくさんの方に助けていただいたことだけはしっかりと覚えております。その方々にいつかなにかしらご恩返しができるようになるまではせめて生きていきたいとは思っています。今のところ。

もう少し、外側の話もさせてください。
公演を観てくださったお客様に、わざわざ原作の『遠野物語』を買ってくださったり、
過去の日記を読み返して金田一京助の講演を若いころに聞きに行ったことをを思い出してくださったり、そしてそれをことをこちらにまでわざわざご報告してくださった方がいらっしゃって、これだけは手放しで本当にうれしく思っております。
本番が終わってから、こういう風な連鎖が起こることを私は一つの希望として常に思っていて、原作を知らない方にそういうふうな作用をすることが可能な作品がまた一つ作れたことは、良かったのかなと思います。
『大鏡』もそうでしたが、『遠野物語』もお好きでないと、どこかで事故のように出会わないと知られない作品になってきていると思っていて、そういう事故になれたことがうれしいです。(逆に悪い意味の事故になってしまっていたら、皆様にも、柳田さんや佐々木さんたちにも本当に本当に申し訳なく思っています。)

原作は青空文庫でも読めます。現代語が良い方は、現代語訳解説付きのものか、京極夏彦さんのリミックスをおすすめします。
もっと物語として読みたいという方は、アレンジきかしたものでも大丈夫でしたら、井上ひさしさんの『新釈遠野物語』もおすすめです。
(逆に『遠野物語』みたいなのもっと!という方には、『遠野物語』の続編的な立場にある、『遠野物語拾遺』や、『遠野物語』に対をなすといわれる佐々木さんの『聴耳草紙』とかもありますのでおなかいっぱいになるまでぜひどうぞ。)

そのほかの関連本は、公演始まる前に書いていた『遠野物語』についての記事で少なからずご紹介させていただきましたのでそちらをご参考いただければと思います。
(柳田さん関連はあまりご紹介できてなかったかも…著作が多いので。岩波文庫ならたしか、『遠野物語』と『山の人生』がセットで文庫化されてます。『故郷七十年』は柳田さんがやってきたこととかの回想録みたくなってますので柳田さんのやってきたことのだいたいを知りたい方はおすすめです。)

偉そうにおすすめばかりしてごめんなさい。原作に関してはまだまだお話したいことはたくさんたくさんあるのです。しかし、私はあまり頭がよくないので、どうしても知っていることだけを申し上げるのみになってしまいます。申し訳ない。
なのでむしろ私がおすすめされたいので、ぜひまた今度ゆっくりお話ししたく思います。
そして、私の解釈は間違っているというようなご指摘をいただければそれこそ死ぬほどうれしいです。

いや、でも別に知らなくてもいいよねっ!っていうのは同時にいつも思っています。
これは本当に私個人のあれで、あれなんですが。
やっぱり私は寂しい人間で、私が良いと思っているものを共有したいという欲がありまして、でも、やっぱり皆いそがしいし、なかなか会えないし、会えたとしてもなかなかこんな話を聞くのは難しいだろうし、私は話すのが下手だし、伝わらないし、伝えられないし。(でもそれを演劇にしたところで、やはり下手なものは下手だとはおもいますが。)
でも、単純に、私のいいなって思うものが、今そこで消えてなくなってしまうような状態になってしまったとき、私はやっぱりいろいろな手段を使って、これいいよね!って言っていたいなと思うのです。私以外にも言う人がたくさんいれば別にいいんですが。いや、たくさんいたって言うときは一緒に言いますし。(でも、そういう欲から出発しているのがもしかしたらよろしくないのかな?)
いや、でも本当に、知っているということは悪いことじゃないよねってだけで、なんかいいなってものがそのまま消えてなくなってしまうのもきっと美しいんだろうし。別にほんと、まじで、知らなくたって構わないとは思います。
(何が良くて何が悪いのかは個人によって、あるいは個人が生きている時代によって大きく左右されることと思います。
今は何が良くて何が悪いのか本当にわかりませんね。良い悪いなんてのはそもそもないのかもしれませんね。
でも、こうしてみようよって決めていかないと動けないこともありますね。きっとね。
そういう時に、でもこれもあるよ!こっちもあるよ!っていろんなことを言って悩ませる存在でいたいなあとは常々思いますとりあえず。)

あと、今回は話すこととか話さないこととか、聞くこととか聞かないこととか、伝えることとか伝わらないこととかもいろいろ考えたつもりでした。
やっぱり、当たり前ですが、話を聞きたくないって思っている人に話すのは本当につらいし、難しい。伝えたいのに伝わらないのも本当に苦しい。
でも、それでも話さなくてはならない時、どうしたらいいのかの答えはまだ、話し続ける以外に見つかっていません。
でもそれじゃあ、聞かなきゃならない人、話し続けられている人もやっぱり非常に苦しいんだよなあということを考えます。

じゃあもう話さなくていいか!というのは簡単に出る答えだと思っていて、私はやはりほかの答えを今も探しています。
聞かなくても見なくてもいつのまにやら伝わる方法があればいいのに。(いや、そんなのないな。伝わるというのは幻想であることは最早わかっているから、だから言葉を、コードを、信号を、さんざん探しているんだった。そうだった。何お花畑みたいなこと言い出したんだ私は。しにたい。もうやめよう。)

おとといあたりにボロボロの身体を引き摺って久しぶりに職場に行きましたら、私の机に課題がどっさり提出されていて、みんな生きてた!ってすごく思いましてうれしくなりました。職場の時間は普通に流れておりました。
そしてまた私は今全然誰ともお話したくないけど、仕事柄仕方なくお話しています。
やはり寝る奴は寝ますし、聞いてないやつは聞いてないです。本当にやっぱりいつも通り少し悲しくなるけど、それでもなんかいいなと今は思います。今はね。

そうやってたぶん、話し続けて、こんな話つまらないねごめんねって言って、でも私は楽しいよっていって、外の景色が燃えて、死んでいくっていう幻想を本番期間中に何度も見ました。

やっぱりひどいことになってしまってすみません。
もう少し落ち着きます。

かならずしもドントハレとはいかなかったかもしれないけど、この言葉は別に物語の内容がドントハレじゃなくても、使われます。物語の終わりはいつもドントハレという語を持ちて結ぶなり。とりあえず、終わりましょう。
これで。ドントハレ。

でもまたすぐ次があります。私は、秋は中学生たちと演劇作ります。今の私にできんのかって感じですが、中学生たちは私なんかより爆裂に優れているし、希望の塊でしかないので心強い。たぶん大丈夫です。

金谷

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