授業企画『夏の終わりの羅生門』二日目

二日目!

昨日とは違うメンバーにも集まっていただいて、本日はお昼から授業とリーディング創作。

授業は昨日のおさらいを経て続きの読解を進めます。

定番ではありますが下人の心理変化を中心に読んでいます…。

老婆と出逢ってからの下人の心のうちは非常に忙しいです。老婆の動きや言葉のひとつひとつが下人に影響をあたえていきます。

六分の恐怖と四分の好奇心➡あらゆる悪に対する反感➡安らかな得意と満足感➡前の憎悪と侮蔑…

さすがの大人たちは「あー、そうかー、そうなるかー、そうなるよねー。」とこの忙しい心のうちに寄り添ってくれました。

そして、老婆の長い台詞。老婆の論理に同情をしめしつつ、老婆の言葉で、盗人になる勇気を手にいれ、ついに引剥ぎをした下人には、「大きく(大人に)なっちゃったなぁ…。」的な声も聞こえ、なぞの親目線になる人が続出しました。

結末の描写や表現のメタファーも考え、下人のその後も考えました。

下人はなんだかんだ死ななそう。という意見。それから、下人は洛中へいったのか、洛外へいったのか問題。

ちなみに、帝国文学掲載版の羅生門は、下人は盗みを働きに洛中へ行ったというような最後の一文になっています。そこから書き換えがあって、おそらく現在有名な方の羅生門の最後の一文、「下人のゆくえは誰も知らない。」になります。

書き換えたのにはなにか理由があったのでしょうか。

一通り最後まで読解を終えて、まとめの作業として、二チームにわけて、「羅生門と言う作品を一言で言うなら?」の「一言」をチームで考えて発表しました。羅生門に副題をつけてもらう感じで考えてみます。

二チームそれぞれの一言(副題?)が面白いことになりました。

授業パートはこれでおしまい!
長い休憩をはさんで、『羅生門』リーディング創作にチャレンジ。

座ってばかりだったのでまずは身体を動かします。
おさらいがてら羅生門のダイジェストをつくりました。

映画の予告編みたいな感じ。
うっかりリーディングを作る目的を忘れそうになりました。

休憩をはさみつつ、今度は二人組の三つのチーム羅生門の冒頭部分を読んでみます。

三チームそれぞれのアプローチ。身体を伴う演劇的なものが多く出たので、

次は朗読的に。音声表現に特化して読んでみました。夜になるとメンバーも増えた!ので三人一組で三チーム。

文章中の視点の変化、芥川だと文章中のカメラワークがとてもきれいなのでそういったところをたよりに、どこで読み方や読み手を変えるかを考えてみたりしました。


これも三チーム、全然違う読み方、割り振りの仕方になりました。

創作をしては発表をくりかえし、その都度フィードバックを重ねます。みなさん色々な意見を話して・聞いてくれて、話す時間がとても充実していました。

私個人では、2月の所沢・サークルコラボ実行委員会でやった宮沢賢治作品の朗読発表のときからずっと気になっていた「普通に読む」ことについての話ができて嬉しく思いました。

「普通に読む」ことを難しく感じる人と、「普通に読む」ことしか出来ないと感じる人が今回読んでいるなかでも出てきていて、そこが私が朗読においてとてもむずむずする部分。

私は完璧に、「普通に読む」ことがわからなくて難しいと感じている人で、そういう頭になっているのですが、今回は参加者のみなさんの言葉をきいて、そういう頭になってしまっていることに「なんでだろう?」とちゃんと感じることができています。

「普通に読む」ことについてのこの感覚の違いはいったいなんなんだろう…。

それか、演劇などの言葉をあつかう表現の経験に由来するもの。という意見ももちろんありました。
しかし、また、上手く言えないのですが…、他の要因もぜったいある気がしていて。

頭での理解から身体へ表出させるときに起こる問題のある程度の明確さとその対処はなんとなくあるんですが。

身体への表出のなかで特に音声(言葉)の表出は、またちょっと質が違う感じがしていて、明らかでなくて、なにか別の方向からの問題がいくつかありそうな気がしていて、うーん。

明日、最後の一日でそこが明らかになるかどうかはわかりません。なんせ、このほかにも考えたいことがいっぱいある!

明日も贅沢な時間を過ごす予定です。


たのしみたのしみ。

金谷

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