『こころ』のこと2

『こころ』の二回目。
今日は恐らく授業では消化しきれない、『こころ』の前半部分のお話をしようと思います。

昨日も言った通り、こころは上・中・下と三部構成。授業でやるのは、下の一部分なので、上・中の内容は、どうしても簡単なあらすじしかご説明しかできないのですが、
個人的には、漱石先生のおもしろみはこの上・中でもいかんなく発揮されているものと思っています。

というか、私は漱石先生の書く移動のシーンが大好きなんです。
『こころ』もそうなのですが、なんとなく、漱石先生の登場人物はよく移動している。と、思う。(そんなに多くの作品を読んだわけではないですが。)
「漱石先生のお散歩」と心の中で勝手によんでいるのですが、登場人物が目にするものとか場所の描写が漱石先生の面白みのひとつだと私は思っています。

『こころ』でももちろん、色んな移動があって、「先生」と「私」はよく歩いて移動しています。あ、電車も乗ります。なぜなら舞台が東京だから。
「先生」と「私」がはじめて出会うのは鎌倉の海ですが、それから東京に帰って、「先生」と「私」は親交を深めていきます。そこからは、東京の今で言う文京区・千代田区あたりがメインの舞台になります。
時代は明治後期の設定なので、その辺を歩くと今でも名残が残っていたりします。

当たり前ですが、昔も今も東京は人が多くいる場所です。漱石先生の書く東京にも、ちゃんとそこで生活している人たちがいて、動くものがあって、私はそれがとてもうれしいというか、なんというか。登場人物がちゃんと生きた世界の中にいる感じが、たまらなく好きです。
それではここで金谷おススメの『こころ』のお散歩シーンをちょっとだけご紹介しましょう。
上の部分からの抜粋です。

↓↓

「先生どこかへ散歩しましょう。外へ出ると大変好いい心持です」
「どこへ」
 私はどこでも構わなかった。ただ先生をつれて郊外へ出たかった。
 一時間の後のち、先生と私は目的どおり市を離れて、村とも町とも区別の付かない静かな所を宛もなく歩いた。私はかなめの垣から若い柔らかい葉をもぎ取って芝笛を鳴らした。ある鹿児島人を友達にもって、その人の真似をしつつ自然に習い覚えた私は、この芝笛というものを鳴らす事が上手であった。私が得意にそれを吹きつづけると、先生は知らん顔をしてよそを向いて歩いた。
 やがて若葉に鎖とざされたようにこんもりした小高い一構の下に細い路が開ひらけた。門の柱に打ち付けた標札に何々園とあるので、その個人の邸宅でない事がすぐ知れた。先生はだらだら上りになっている入口を眺ながめて、「はいってみようか」といった。私はすぐ「植木屋ですね」と答えた。
 植込の中を一うねりして奥へ上ると左側に家があった。明け放った障子の内はがらんとして人の影も見えなかった。ただ軒先に据えた大きな鉢の中に飼ってある金魚が動いていた。
「静かだね。断わらずにはいっても構わないだろうか」
「構わないでしょう」
 二人はまた奥の方へ進んだ。しかしそこにも人影は見えなかった。つつじが燃えるように咲き乱れていた。先生はそのうちで樺色の丈の高いのを指して、「これは霧島でしょう」といった。
 芍薬も十坪あまり一面に植え付けられていたが、まだ季節が来ないので花を着けているのは一本もなかった。この芍薬畠の傍にある古びた縁台のようなものの上に先生は大の字なりに寝た。私はその余った端の方に腰をおろして烟草を吹かした。先生は蒼い透き徹るような空を見ていた。私は私を包む若葉の色に心を奪われていた。その若葉の色をよくよく眺ながめると、一々違っていた。同じ楓かえでの樹きでも同じ色を枝に着けているものは一つもなかった。細い杉苗の頂に投げ被せてあった先生の帽子が風に吹かれて落ちた。
 
 私はすぐその帽子を取り上げた。所々に着いている赤土を爪で弾はじきながら先生を呼んだ。
「先生帽子が落ちました」
「ありがとう」
 身体からだを半分起してそれを受け取った先生は、起きるとも寝るとも片付かないその姿勢のままで、変な事を私に聞いた。
「突然だが、君の家うちには財産がよっぽどあるんですか」
「あるというほどありゃしません」
「まあどのくらいあるのかね。失礼のようだが」
「どのくらいって、山と田地が少しあるぎりで、金なんかまるでないんでしょう」
 
(中略)

すると後うしろの方で犬が急に吠え出した。先生も私も驚いて後ろを振り返った。
 縁台の横から後部へ掛けて植え付けてある杉苗の傍そばに、熊笹が三坪ほど地を隠すように茂って生えていた。犬はその顔と背を熊笹の上に現わして、盛んに吠え立てた。そこへ十ぐらいの小供が馳けて来て犬を叱しかり付けた。小供は徽章の着いた黒い帽子を被かぶったまま先生の前へ廻まわって礼をした。
「叔父さん、はいって来る時、家に誰もいなかったかい」と聞いた。
「誰もいなかったよ」
「姉さんやおっかさんが勝手の方にいたのに」
「そうか、いたのかい」
「ああ。叔父さん、今日はって、断ってはいって来ると好よかったのに」
 先生は苦笑した。懐中から蟇口を出して、五銭の白銅を小供の手に握らせた。
「おっかさんにそういっとくれ。少しここで休まして下さいって」
 小供は怜悧(りこう)そうな眼に笑いを漲らして、首肯いて見せた。
「今斥候長になってるところなんだよ」
 小供はこう断って、つつじの間を下の方へ駈け下りて行った。犬も尻尾を高く巻いて小供の後を追い掛けた。しばらくすると同じくらいの年格好の小供が二、三人、これも斥候長の下りて行った方へ駈けていった。

↓↓

ヤバいほどただの散歩です。いや、中略したところが割と物語と関わるお金の話だったのですが、それを抜かしたら本当にただのお散歩です。
一度ねりもののWS的なのでも使ったのですが、私、このシーンが『こころ』で一番好きと言っても過言ではない。

こういった描写がなにもかもがいつもどおりで普通なのにこんなに新鮮なのは、描写の視点が「私」であるというのも大きいかと思います。漱石先生の作品は視点を担当する人が田舎者であることがちょくちょくあります。『こころ』の「私」も、田舎から出てきた大学生です。(「先生」も実は新潟出身です。いや、新潟が田舎だとディスっているわけではなく。)このシーンでは、「私」は大学の試験が終わって結構晴れ晴れしているから、その効果もあるかもしれません。

しかし、漱石先生自身は、東京の新宿あたりの出身です。漱石先生が生まれたころはまだぎりぎり江戸でした。

漱石先生はそれこそ、江戸~明治~大正と、三つも時代をまたいで生きてきた方なので、東京の街並みが大きく変わっていったのもきっと目の当たりにしていらしたろうし。
学校の先生として愛媛・熊本にいたこともありましたので、そういう東京じゃない土地と、変わっていく東京とで、漱石先生にはさまざまな視点があったのではと思います。
あと、東京生まれの彼が田舎者の目線を持つには、何より、海外留学の経験が、結構活かされているんじゃないかなあとも思います。
その留学経験が、彼を小説家にしたといっても過言じゃないっぽいし。

ざっくり言っちゃうと、漱石先生は、東京大学英文科で学んで、卒業後は愛媛や熊本の中高の学校で学校の先生をしていました。その後にイギリスに留学。帰国後、また東京に戻り、今度は大学講師として母校の東京大学に戻ってきます。そして、その傍らで書いたのが漱石先生の処女作となる『吾輩は猫である』の小説です。これが評判になって、彼の小説家人生が始まります。

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長いのでそろそろ終わります。今日は、上・中の内容というよりは、場所についてのお話になりました。あしからず。

それでは、おやすみなさい。

金谷

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